マインドフルネスへの批判と社会正義
心理学者・スティーブン・マーフィ重松氏の名著『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』。ここには、マインドフルネスや瞑想が都合の良いビジネスの手段になってしまっていることへの批判や、マインドフルネスと社会正義との関係について、興味深い示唆がありました。
はじめに
瞑想、マインドフルネスと聞くと、
一昔前までは、
怪しい
宗教っぽくてとっつきにくい
というイメージがありました。
でも、最近ではそのイメージもずいぶんと払拭され、
すっかりオシャレなものになりました。
『anan』をはじめ、女性向けファンション誌でも瞑想についての特集が組まれるようになり、
瞑想ポーズを美しく決めたモデルさんが、本や雑誌の表紙を飾るようになりました。
今や、超多忙なビジネスマンや健康意識の高い女性が、率先して瞑想を行う時代。
瞑想が広く普及することは良いことですが、商業ベースでしか語られなくなることに危惧を覚えるのは、私だけではないはずです。
マインドフルネスは一部のエリートのもの?
似たようなことは、マインドフルネスの本場であるアメリカで、日本に先立って起こっています。
スタンフォード大学の心理学者、スティーブン・マーフィ重松氏は、その著書『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』の中で、次のように指摘します。
近年、 マインドフルネスといえば個人的な利益、時には企業の成長さえ連想させるものとなっている。
タイム誌の表紙のように、 たいていひとりの細身の白人が、 両目を閉じ、足を組んで座り、「内面の平和」を「マインドフル」に探究している姿で表現される。
マインドフルネスは特権階級、裕福な人々、白人のためのぜいたく品であり、もっと基本的な問題を山ほど抱えているような一般人やマイノリティ向きではないと多くの人に思われているようでもある。
引用元:『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』スティーヴン・マーフィ重松、講談社、2016年。以下同じ。
これは、近年のマインドフルネスのあり方に対する重要な問題提起です。
マインドフルネスの考え方や実践は、伝統的な仏教に由来しています。
階層、身分、人種の垣根を超えて、ひろく社会運動、宗教運動として受け継がれてきたはずです。
本の中で、マインドフルネスを世に広めたジョン・カバットジン博士と、著名なマルクス主義者であるアンジェラ・デイヴィス氏の対談が紹介されています。
デイヴィス氏の、カバットジン博士に対する挑戦です。
マインドフルネスは特権を持つ人たちのためのものではないか。
西洋仏教というのは、すさまじいペースで進む資本主義ゲームにしっかり参加しておきながら、自分はその一部ではないかのような認識を維持させる方法であるのか。
マインドフルネスはどのように社会正義を本当の意味で支援できるのか。人種的不公平が存在する世の中で、マインドフルネスはどんな役に立つのか。
鋭い指摘です。
実際、アメリカにおける瞑想・マインドフルネスの市場規模は、2017年で12億ドル、2022年には20億ドルを超えると予想されています*1
20億ドルは、日本円にすると、2,200億円近くになります。
まさに、「おいしいビジネス」。
結局、瞑想は一部のエリートたちによる金儲けの手段だと言われても、仕方がない側面はたしかにあります。
マインドフルネスは社会を良くするのか?
デイヴィス氏の質問に対し、カバットジン博士はこのように答えます。
マインドフルネスの訓練を通して自覚の度合いが増すと、非常に多くの集団を苦しめている貪欲さ、憎しみ、誤った信念を、着実に根絶できると信じている。
カバットジン博士の強い信念を感じる回答ではありますが、みなさん、これで果たして納得しますか?
極論をいえば、人類みなが瞑想し、「悟り」といわれる状態を達成したとしたら、貧困や差別といったものは根絶され、社会正義が実現されるのかもしれません。
しかしながら、そんなことは空想にすぎません。
マインドフルネスは、個人個人の精神・習慣にフォーカスしたトレーニングです。
個人のメンタルにいくらアプローチしたところで、それが社会問題の解決や社会制度の持続的な変化をもたらすとは考えにくいです。
マインドフルネスのベースになっているのは、仏教でいう「正念」です。
「正念」とは、「気づき」です。自分が今、ここで体験していることを、ありのままに気づくということです。
ただ「正念」は、仏教でいう「八正道」のうちの一つにすぎません。
八正道には、ほかにも、「正語」「正業」「正命」など、さまざまな教えがあります。
これらは、自分の行いによって、直接的にも間接的にも、他人を貶めたり、傷つけるようなことがあってはならないと教えるものです。
いわば、社会的・道徳的な規範です。
仏教の実践では、瞑想して「気づき」を育むだけでは十分ではなく、自分が社会や所属するコミュニティーのメンバーであることを自覚し、規範に即した行動まで求められます。
近年のマインドフルネスの問題点は、「気づき」にばかり着目するあまり、社会的な視点を切り捨ててしまっているところにあるといえます。
マインドフルネスと社会正義の統合
いくら瞑想を実践したとしても、誰もが平等に苦悩から解き放たれ、幸せに生きていけると考えるのは難しいです。
マーフィ重松氏の問題意識も、そこにあります。
同氏は、心理学者でありながら、マインドフルネスの未来を、社会正義と統合させることによって切り拓こうとしています。
もし私たちが幸福とは個人の選択の問題、つまり私たちの姿勢次第だと主張し、境遇はたいして重要でないと考えるなら、
それは現代の不平等と抑圧的な状況を標準化していることになりはしないだろうか。
もし個人の状況などと無関係に、誰もが平等に幸福になり得ると言うなら、
階層や社会的・経済的不平等や貧困といった構造的問題をなくす努力をやめてしまうのに都合のよい言い訳を与えることになりはしないだろうか。
私のミッションは、マインドフルネスを社会正義と結びつけることによって、人々の解放、 個人や個人間の癒やし、社会活動、包摂的コミュニティの形成を促進していくことにある。
マインドフルネスによって、私たちは他者とのつながりや、政治的・社会的存在として自分たちがいかに政治的・社会的歴史によって作られているかを、いっそう意識できるようになる。
こうした理解があれば、思いやりのある活動に従事する動機が生まれる。
同氏は、アメリカでは、教育現場におけるマインドフルネスの導入が進んでいるほか、2011年に起きた「ウォール街を占拠せよ」と呼ばれる抗議運動の中にも瞑想やマインドフルネスの要素がシンボリックに盛り込まれたことなどを紹介し、
マインドフルネスは、個人の健康上の実践を超え、政治や教育など社会的広がりをもつ実践になりつつあることを指摘しています。
おわりに
この本におけるマーフィ重松氏の指摘は、瞑想を日々実践する私たちにも、重要な示唆を与えてくれます。
この本の最終章のタイトルは、"Responsibility"(責任)となっています。
これは、自分の幸福は他の人々の幸福があってこそだと認め、人々の幸福を気にかけるという社会的・道義的責任のことです。
瞑想やマインドフルネスの実践を始める人は、多くの場合、「自分のメンタル問題をなんとかしたい」という動機を強く持っています。
瞑想にあまりにものめり込んでしまうと、全てを自分のメンタルの問題に引きつけてしまい、周囲が見えなくなるおそれがあります。
自分を取り巻く家族や、会社や学校などのコミュニティ。また住んでいる地域や国家。
自分を社会的存在としてみるとき、周囲にはさまざまな問題があることがわかります。
マインドフルネスを実践するからこそ、自己のみならず、周囲にも目を向けよう。
他者への共感を育み、社会的な責任を感じよう。そして、行動に移そう。
この本は、そんなメッセージを私たちに伝えてくれます。
瞑想やマインドフルネスを続けていて、どこか行き詰まりを感じたとき、この視点が突破口になるかもしれません。
興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。
【単行本】
【Kindle版】
パオ