死ぬのが怖い。仏教から学ぶ、「死の恐怖」を和らげる方法とは?
死ぬのが怖い。。死の恐怖を和らげる方法を、仏教の視点から考えてみました。ヒントは、死を遠ざけるのではなく、むしろ近づけていくことにありました。
はじめに
死ぬのが怖い。。
誰だってそう思います。
自分の身の回りの人が亡くなった。大きなケガや病気で九死に一生を得た。
そんな出来事があって、死の恐怖をまざまざと感じることがあります。
また何もきっかけがなくても、ぼんやりと、自分にやがて訪れる死というものを感じ、怖くてたまらなくなる人もいるでしょう。
死は、誰にでも訪れる、100%確実な未来です。
しかもそれは、いつやってくるかわかりません。
5年後かもしれないし、50年後かもしれないし、明日かもしれません。
いつやってくるのかわからないものに怯えながら毎日を過ごすのは、ごめんです。
仏教の考え方をヒントに、死の恐怖を和らげる方法を考えてみました。
死は「敗北」なのか?
死について考える際、そもそも、私たちが生きるこの社会で、死がどのように扱われているかを知る必要があります。
現代の日本、そして多くの先進諸国では、死はネガティブなものと位置付けられています。
これは、近代医療の影響です。
近代医療において、死は「敗北」です。
基本的に病院は、死をできるだけ遠ざけるための機関です。医者が、死を積極的に意味づけるということはあまりしません。
以下のグラフを見てください。
(厚生労働省:死亡の場所別にみた死亡数・構成割合の年次推移より作成)
日本における、死亡の場所別にみた構成割合の推移です。
1951年時点では、自宅で死を迎える人の割合は、80%を超えていました。
2009年になると、それが12%にまで低下。80%近くの人が、病院で死を迎えています。
わずか60年の間に、「家で死ぬのが当たり前」から、「病院で死ぬのが当たり前」の時代に、すっかり様変わりしました。
より多くの人が近代医療の恩恵にあずかれるようになったことは素晴らしいことですが、死が病院の中での出来事になってしまい、私たちの日常生活の延長で想像することが難しくなっていきました。
死と仲良しになる
死が身近なものでなくなるにつれ、リアルな死の肌感覚がどんどん乏しくなっていきます。
死の恐怖を和らげる一つの方法は、「死と仲良くなる」ことです。
タイで出家された日本人僧侶であるプラユキ・ナラテボー先生は、死の捉え方が、日本とタイではまるで異なることを指摘しています。
日本とタイのお葬式の様子を比較すると、日本ではみんな悲しみにくれてしめやかにといった感じ。一方タイのお葬式は、泣いて、笑って、踊って、食べて・・・。日本に比べて深刻さがあまりないんですよね。
また、私の寺のある田舎のほうだと、白昼戸外で、キャンプファイヤーのように組まれた薪の上に遺体の入った棺を乗せ、村人一同が取り囲む中で火が入れられます。
日本のように、最後のお別れをしたら、ボイラーの扉がガーッと閉じられ、「参集者の皆さんは別室で」ではなく、青空の下、肉親や村人にじっくりと見守られながら、遺体が燃え、やがて煙と灰になっていく。そういった様子を誰もがライブで見られる。
おそらくこれも「死を思う」機会であり、やがて来る自分の死も自然に受け入れていく心の態勢づくりに役立っているのかもしれませんね。
死を思う、死に直面するというのは、日常の些細な問題にかかずりあう意識の流れを止めて、より本質的なテーマに向かい合うための頓服効果を発揮します。
例えば上座仏教の伝統には「モラナサティ」といって、死の瞑想にあたるものがあります。その代表的なものは「九墓地観」といって、死んだばかりの遺体の状況から、だんだんと変色、腐乱し、蛆がわき、やがて骨や土になっていくまでの様子を九段階に分け、順々に観想していくものです。
また、タイでは、死体の写真集が僧侶に配られたり、 死体のスライド上映が行われたり、墓場で寝起きしながら瞑想することを勧められたりします。
また、「エイズ寺」として知られ、多数のエイズ患者を受け入れている寺には「死の瞑想部屋」というのがあって、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体が展示され、寺を訪れた人が誰でも見られるようになっています。
引用元:『脳と瞑想』プラユキ・ナラテボー、篠浦伸貞著、2016年、サンガ
なかなか凄みがありますね。
現代の日本では、普通に暮らしているだけでは、ここまで死を身近に感じる機会はありません。
死を「あってはならないもの」として遠ざけてきた結果、必ず訪れる自分の死を受け入れる態勢が整わないまま、歳をとるケースも増えてしまいました。
「いつでも死ねる」という状況を作る
日本に暮らしている以上、タイ人の真似はなかなかできません。
タイの田舎のように、リアルな死が感じられるような環境を作ることなんてできませんし、それをすべきだとも思えません。
では、どうすれば良いのか?
答えは、「今ここを生きる」ことです。
未来というのは思考が作り出すイメージなわけですから、そういった思考やイメージを働かせることなく、ただただ「今ここを生きる」という感じに安住できれば、未来がなくなることが問題ではなくなり、すなわち、死というものが問題ではなくなるわけです。
引用元:『脳と瞑想』プラユキ・ナラテボー、篠浦伸貞著、2016年、サンガ
これは、言い換えれば、「いつでも死ねる」という状況を作るということです。
メメントモリ(死を想え)という有名なことばがありますが、自らの死を思うとき、今、ここで自分が何をすべきかがわかります。
スリランカ出身の有名な僧侶であるスマナサーラ長老も、このようにおっしゃっています。
ですから我々は「いつでも死ねる」という状況を作ることです。死ぬときに、「このまま死んだら困ります」 という状態ならかわいそうなのです。
私は「あなた、今、死ねる?」と問いかけます。「ああ大丈夫、別にどうということはない。準備OKだ」と言えるなら、とても素晴らしいことです。
きちんと「死」を知っている、最高の幸福に達することのできる人間だという証拠なのです。
みなさんも、幸福な人生のために、日々の生活の中で、理性に基づいて、しっかりと「死の観察」をしてみてください。
死は感情的に観察するものではありません。感情で死を見るのは、俗世間のやり方です。そうすると、恐くなったり、精神的に問題を起こしたり、暗くなったりします。
客観的な事実として、日々、理性によって「死」を観察して生きるならば、究極の幸福に達することも不可能ではないのです。
引用元:『「死」は幸福のキーワード:「死随念」のススメ』アルボムッレ・スマナサーラ著、日本テーラワーダ仏教協会、2014年
おわりに
さて、こんな記事を書いてきた私ですが、死が怖いかと聞かれたら、もちろん怖いです。
たまらなく怖いです。
「あなた、今、死ねる?」と聞かれて、「はい」とは答えられません。
死ぬまでに、自分のため、家族のため、やらなくてはいけないことが、たくさんあると感じます。
でも、やらなくてはならないことをあれこれと考えるとき、自分が「今ここ」から離れ、未来にさまよっていることがわかります。
仏教は、自分が今、ここで、どのようにあれば良いかを教えてくれます。
これで、私自身は、いくぶん楽になったと感じています。
みなさんは、どのようにお考えですか?
参考になれば嬉しいです。
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