「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の違いとは?
代表的な瞑想法としてよく言及される「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」。集中の瞑想、観察の瞑想とも呼ばれたりしますが、両者の違いとは何でしょうか?2つの瞑想法の本質的な違いについて、少し踏み込んで解説してみました。
はじめに
世の中にはいろいろな瞑想法があります。
中でも、瞑想について興味をもち、調べたり学び始めたときに、よく目にする2つの瞑想法があります。
「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」です。
とりわけ「ヴィパッサナー瞑想」という文字を目にする機会が多いですが、いつも「サマタ瞑想」とセットで語られる印象があります。
ヴィパッサナー瞑想は「観察」の瞑想で、サマタ瞑想は「集中」の瞑想?
うーん。わかったような。わからないような。。
結局、この2つの瞑想法、何が違うのでしょうか?
以下、少し詳しく解説していきます。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い
基本的な違い
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いを、簡単に図にまとめると、以下のようになります。
瞑想の種類 |
意味 |
方法 |
効果 |
漢語 |
英語 |
サマタ瞑想 |
集中の瞑想 |
特定の対象に意識を集中させる |
集中力が上がる |
止 |
Focused Attention |
ヴィパッサナー瞑想 |
観察の瞑想 |
瞬間、瞬間の出来事を観察する |
今への気づきが得られる |
観 |
Open Monitoring |
参考:『マインドフルネスー基礎と実践ー』貝谷久宣、熊野宏昭、越川房子編著、日本評論社、2016年
また、この2つの瞑想をイラストにすると、以下のようなイメージになります。
※サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い(イメージ)
サマタ瞑想とは?
(サマタ瞑想は、)ある特定の対象(呼吸など)に注意を集中し、対象から注意を逸らさず維持しつづけるようにモニタリングすること、
注意が逸れた時にそれ以上囚われずにそこから注意を切り離すこと、
また再度対象に注意を向け直すという3つの技術を要する。
引用元:『マインドフルネスー基礎と実践ー』貝谷久宣、熊野宏昭、越川房子編著、日本評論社、2016年
少し難しい言い方がされていますが、簡単にいうと、サマタ瞑想は、何かひとつのものに意識を集中させる瞑想です。
対象は、自分の呼吸でもいいですし、目の前に見える壁のシミでもいいですし、マントラや念仏など決まったフレーズでもかまいません。
これを繰り返すことで、集中力が身につくほか、散らかっていた注意がひとつにまとまり、心が落ち着くといった効果が得られます。
ヴィパッサナー瞑想とは?
ヴィパッサナー瞑想についても見ていきましょう。
(ヴィパッサナー瞑想は、)注意を特定の対象に向けることなく、
瞬間、瞬間に意識野に浮かんできたあらゆる指摘出来事(思考、感情、記憶、身体感覚など)をそのまま知覚し、観察する瞑想法である。
(これを)繰り返すうちに、特別な努力をすることなく今への気づきが増え、過去や未来への心配・反すうが減少することが報告されている。
参考:『マインドフルネスー基礎と実践ー』貝谷久宣、熊野宏昭、越川房子編著、日本評論社、2016年
ヴィパッサナー瞑想は、サマタ瞑想のように注意を一点に絞るのではなく、むしろ感覚を開いていくイメージです。
からだ全身で自然に生じてくる感覚や、心の中に自然に出てくる思考や感情を、ただありのままに観察する瞑想です。
そして、瞑想会などでよく指導されることですが、瞑想者は、まずサマタ瞑想をしてから、ヴィパッサナー瞑想に移行するのが良いとされます。
まずサマタ瞑想によって、心が落ち着いて統一された状態(サマーディ)をつくり、精神の土台を作った上で、ヴィパッサナーを行うのです。
実際、私が以前参加したヴィパッサナー瞑想センターにおける10日間の瞑想合宿においても、はじめの3日間はサマーディの訓練にあてられ、ヴィパッサナーの実践が始まったのは4日目からでした。
サマタ瞑想は、「意図」のある瞑想
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いを、さらに踏み込んでみていきましょう。
能動/受動という切り口から、両者の違いを理解することもできます。
たとえば、ブッダの教えた瞑想法のひとつに「三十二身分観想」と呼ばれ、
当時の解剖学に基づいて身体を髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、胃、腸、胃の内容物、大便、脳髄、胆汁、痰、膿汁、血、汗、脂肪、涙、血清、唾液、鼻汁、関節滑液、小便と三十二の要素に分解し、それぞれを繰り返し観察していく方法があります。
その際、身体の持つ不浄性に注目し、「しょせん、身体なぞこうした汚いものだ」とみることで異性に対する欲望や自身の身体へのとらわれを減じていこうとする、そういった特定の意図で行じられるとき、それはサマタ系の瞑想と見なされます。
それに対し、特定の意図や「身体は不浄である」などの解釈を交えずに、あるがままの心身観察の一環としてこの瞑想が行じられる場合は「ヴィパッサナー瞑想」となります。
すなわち、サマタ系の瞑想は、意図やコントロールが入るのが特徴です。
集中という行為自体、他のものを意識からシャットアウトして、特定の瞑想対象だけを見つめていくのですから、能動的な行為となりますね。
それに対して、ヴィパッサナー系の瞑想は特定の瞑想対象にグッと焦点をあてたりはせず、また、心をコントロールしてある特定の状態をもたらそうとの意図も持たず、
ただ身体の動きや感覚、あるいは生じてくる心の現象をあるがままに観ていくという、受動的な感じです。
引用元:『脳と瞑想』プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎著、サンガ新書、2016年
「意図」のある瞑想といえば、慈悲の瞑想もそうですね。
慈悲の瞑想とは、
私が幸せでありますように
私の親しい人が幸せでありますように
などと、自分や他者の幸せを願うフレーズを心の中で繰り返していく、とてもユニークな瞑想法です。
この決まったフレーズに意識を集中させていきます。
自他の幸福を願うという明確な意図を伴っているという点からしても、慈悲の瞑想は、サマタ瞑想の一種であるということができます*1
「観察」の視点の重要性
瞑想について調べたり学んだりしていると、
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想、すなわち「集中の瞑想」と「観察の瞑想」がよくセットで出てくるわけですが、
やはり「観察」の視点の重要性を見落としてはいけません。
サマタ瞑想で、ひとつの対象に意識を集中し、心が静まるのは良いことですが、
あまりに美しいフレーズやイメージに集中しているうちに、脳内でドーパミンが放出され、強い快感を感じることがあります。
集中するタイプの瞑想で、いわゆる宇宙的な意識や恍惚感を感じたという人は少なくないですね。
また、 特定の美しいイメージに意識を集中しているうちに、天国のようなヴィジョンを見て愉悦に浸るなんてのもよく聞きます。
瞑想初心者にはとても魅力的な体験ですから、「ハマってはだめだよ」と指導されてはいても、ついついはまり込んでしまうことはありますね。
オウムの元出家者に会って話を聞くと、当時の修行を振り返って、オウム真理教の瞑想には「観察」が全くなかったと、口をそろえて言います。
オウム真理教に限らず、瞑想中にいわゆる神秘体験のようなものをすることが、悟りを得たり、 精神の高みに昇ることだと勘違いしている人はまだまだ多いようです。
ヴィジョンはあくまでもヴィジョンですし、そもそもそういうものを見るのが瞑想の本来の目的ではありません。
たとえ神秘的な体験をしたとしても、それも、怒りや悲しみなどと同じ心の現象。
どんな現象が生じてこようとも、とらわれてしまうことなく、ただただその生まれては消えてゆくさまを、あるがままに見つめていることが大事です。
引用元:『脳と瞑想』プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎著、サンガ新書、2016年
とらわれることなく、ただそこに生じた経験をありのままに見つめる。
これこそが、ヴィパッサナー瞑想実践の核となる「観察」の視点です。
瞑想を続けていくにあたって、この点は肝に命じておきたいところです。
おわりに
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いを、少し踏み込んで解説してみました。
単なる技術や方法論の違いではなく、両者は根本的に性質の異なるものだということがわかると思います。
参考にしていただければ嬉しいです。
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パオ
*1:『自分を変える気づきの瞑想法(第3版)』アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ出版、2015年