【完全ガイド】慈悲の瞑想のやり方
心も身体も軽くなる「慈悲の瞑想」とは?テーラワーダ仏教界の大御所スマナサーラ長老の本など専門書を参考に、慈悲の瞑想のやり方や、初心者が取り組む上で知っておくべきことを「完全ガイド」としてまとめてみました。
はじめに
自分や他者の幸せを願う「慈悲の瞑想」。
世の中に数ある瞑想の中でも、とてもユニークな瞑想法として知られています。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」といったフレーズを、
ひたすら心の中でくりかえしていきます。
慈悲の心を重視する仏教の世界で、長い間実践されてきたものです。
ただ、人によっては、
幸せを願うフレーズを唱えるなんて、怪しい宗教儀式のよう。
上から目線だし、偽善者みたい。。
などと思う方も、少なくないかもしれません。
確かに私も、はじめて知ったときは「なんだか怪しいな」と思い、始めるのに抵抗がありました。
しかしながら、この瞑想、最近の心理学や脳科学の研究により、メンタルに大きな効果を及ぼすことが明らかになっているそうです。
自分や他人の幸せを願う習慣をつけることにより、自尊心や幸福感の増大、他人に対する思いやりや愛情の深化、さらにはうつ病などのメンタル疾患にも効果があることがわかっています。
心がいつも荒んでいる
ネガティブ感情がなかなか離れない
そんな方は、だまされたと思ってはじめてみるのもいいかもしれません。
このエントリでは、日本で長年瞑想指導をされてきたテーラワーダ仏教(上座部仏教)界の大御所、アルボムッレ・スマナサーラ長老の解説などを参考に、
誰でも簡単にできる慈悲の瞑想のやり方や、取り組む上でのポイント、背景にある考え方、Q&Aなどをまとめてみました。
慈悲の瞑想のやり方
始め方は、一般的な瞑想をするときと同じです。
落ち着いた環境を用意して、クッションやイスの上に座り、目を閉じます。
カラダの力を抜いてリラックスしますが、姿勢だけは正しておきます。
そして、以下のフレーズを、心の中でくりかえします。
瞑想会などで実践するときは一緒に声に出すこともありますが、一人で行うときは、声に出さなくても大丈夫です。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように ※3回くりかえし
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように ※3回くりかえし
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように ※3回くりかえし
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように ※3回くりかえし
引用元:『慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ』アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ出版、2018年
これは、スマナサーラ長老が「携帯バージョン」として推奨している慈悲の瞑想の全文です。
こんなの長くて暗記できない!
と思うかもしれませんが、覚え方は簡単です。
まず、述語のパターンが決まっているので、これを覚えてしまいます。
幸せでありますように
悩み苦しみがなくなりますように
願いごとが叶えられますように
悟りの光が現れますように
幸せでありますように
このパターンはずっと変わらないので、慣れればすぐに覚えられます。
次に、主語をつけます。
主語は、
「私」
→「私の親しい生命」
→「生きとし生けるもの」
→「私の嫌いな生命」
→「私を嫌っている生命」
とスライドさせていきます。
このフレーズを一通り心の中でくりかえしたら、それで終わりです。
時間のない方には、さらに簡略化した「ショートバージョン」もあります。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように ※3回くりかえし
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように ※3回くりかえし
ここで紹介したフレーズは、スマナサーラ長老(日本テーラワーダ仏教協会)が推奨しているもので、あくまで一例です。
慈悲の瞑想で唱えるフレーズは、指導者や本によっても言い方が微妙に異なっていたりしますが、基本的にはどれも自分や他者の幸せを願うものとなっています。
留意すべきポイント
慈悲の瞑想を実践する上で、留意すべきポイントをいくつかご紹介します。
お祈りや儀式ではない
スマナサーラ長老は、慈悲の瞑想は、宗教的な儀式でないことを強調されます*1
お祈りや呪文ではないので、フレーズを一言一句まちがえずに唱えることに何か特別な意味があるわけではありません。
フレーズを機械的に唱えるのではなく、自分や他者の幸せを願うことばを、自分自身に言い聞かせるように、心を込めて念じます。
そして、それによって生じてくる感情や思考、カラダの感覚を、ありのままに観察します。
感情を自分自身と同一視しない
慈悲の瞑想をしていると、心にさまざまな反応が起こります。
「私が幸せになりますように」のところで、グッと気持ちが高まったり、
「私の親しい生命が...」のところで、自分の家族や恋人のことをイメージして、目頭が熱くなったりすることもあります。
好きな人を愛おしく思う感情や、親しい人を慈しむ気持ちが生じたら、それをありのままに自分で受け入れ、気持ちの変化を客観的に観察していきます。
感情を無理に抑える必要はありませんが、感情に飲み込まれてしまってもいけません。
また、一生懸命フレーズを唱えても、特に何の感情も感じないこともあります。
本当に効果があるのかな
瞑想がうまくできないから、自分はダメだなあ
などという思いがわいてくることもありますが、あまり良し悪しは判断せず、たんたんと続けていけば良いです。
出てくる思いや感情と、自分自身を同一視しないことが大切です*2
つながりの感覚を育む
慈悲の瞑想では、他者にしてもらったことや、他者の良いところを思い出したり、自分が幸せを願うように、他者の幸せを願っていることに注意を向ける教示がある。
それは、 普段は意識しない他者の美点や幸せへの願い、苦難や悩みに注意を向けることで、自分と同じように他者も幸せを願っていて苦痛や悲しみを経験することを洞察し、他者とつながっている感覚を培うためである。
引用元:『マインドフルネス -基礎と実践-』貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子編著、日本評論社、2016年
日常生活で、自分や親しい人の幸せは願うことはあっても、「生きとし生けるもの」とか「自分の嫌いな人」の幸せを願うことって、なかなかないですよね。
自分の幸せを願うように、あえて、普段は意識しない他人の幸せを願ってみる。
自分のことをいつも攻撃してくるあのパワハラ上司も、 もしかしたら自分と同じようなことに悩んでいて、問題を解決したいと思っているのかもしれません。
今苦しんでいて、目の前の問題を解決したいと思っている。その点では自分も上司も同じかもしれません。
そのようにして、敵対関係にある人でさえも、どこかでつながりの感覚を育もうとするのが、慈悲の瞑想のねらいでもあります。
背景にある考え方:「慈悲喜捨」
慈悲の瞑想の背景にある考え方について解説します。
仏教には、四無量心(しむりょうしん)ということばがあります。
四無量心とは、他者の不幸な事態を幸福に置き変えようとする慈(loving-kindness)、
他者の困難や不満足なことがあったとき問題を解決したり、取り除こうとする悲(compassion)、
他者の幸せを喜び、長く続くことを願う喜(empathic joy)、
他者の幸福、不幸を平静な気持ちで見守る捨(equanimity)という慈悲喜捨のことをいう。
引用元:『マインドフルネス -基礎と実践-』貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子編著、日本評論社、2016年
慈悲の瞑想では、決まったフレーズを心の中でくりかえすことで、慈悲喜捨の心が生じ、その感覚を経験できるように設計されています。
スマナサーラ長老は、慈悲喜捨について、次のように説明しています。
慈悲の瞑想では、慈・悲・喜・捨と順番にこころを育てていかなくてはいけません。
一番わかりやすいのは、友情(慈・メッター)という気持ちです。
次に憐れみ(悲・カルナー)で、困っている生命に対して「早くよくなってほしい」という気持ちです。
ちょっと難しいのは喜び(喜・ムディター)です。生命はわがままですから、他の生命が成功すると腹が立って嫉妬心で燃えてしまうのです。
(中略)
他の生命が成功して、楽しく明るく生きる姿を見て、なんて素晴らしいことか、おめでたい、という喜び(随喜)の気持ちを育てなくてはいけないのです。
かなり難しいのは捨(ウペッカー)の実践です。捨とは、生命に対してあまり関わりを持たず、「生命とはそんなもの」と冷静にいることなのです。
美しい人・醜い人、幸福な人・不幸な人、明るい人・悩んでいる人、怒り・嫉妬でけんかばかりしている人、などなどがいます。
そういう人々を観ても、生命の性格に合わせて自分の気持ちを揺るがせることをやめて、激しい感情の波を作らず、「生命とはそんなものだ」と冷静なこころでいるのです。
引用元:『慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ』アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ出版、2018年
慈悲喜捨、4つの気持ちに共通しているのは、「見返りを求めないこころ」ということにもなります。
意味 |
英語 |
パーリ語 |
|
慈 |
人に親切にしたい、人と仲良くしたいという気持ち |
loving-kindness |
メッター |
悲 |
困っている人を助けたいという気持ち |
compassion |
カルナー |
喜 |
人の幸福に嫉妬せず、ともに喜ぶ気持ち |
empathic joy |
ムディター |
捨 |
人の幸福、不幸を平静に見守る気持ち |
equanimity |
ウペッカー |
Q&A
慈悲の瞑想を始めると、いろいろな疑問点が出てきます。
スマナサーラ長老の本を参考に、いくつかの代表的な疑問点についてQ&A形式でまとめてみました。
なぜ最初に「私」の幸せを願うのか?
慈悲の瞑想は、まず「私」の幸せを願うところからスタートします。
これについては、自己中心的ではないのか、エゴイズムではないのかという声が聞かれます。
スマナサーラ長老は、次のように答えています。
自分自身が大事だというのは、否定できない確固たる事実なのです。まずそのことを認めることから「慈悲の瞑想」は始まります。自分自身に対する慈しみを育てるのです。
自分より人が大事だなんて、言わないでほしいのです。偽善的な言葉、嘘の言葉は言わないでほしいのです。
いくら人のために何かをしても、偽善者になって、自分を犠牲にして人のお世話をしてあげようというのは、決してよいことではありません。自分に無理がたまってきて、いつかは何かが壊れてしまうはずです。
引用元:『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】:ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想』アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ出版、2015年
また、これは私の個人的な感覚ですが、
最初に自分の幸せを願うと、そのあと他人の幸せもスムーズに願うことができると感じます。
いきなり「生きとし生けるもの」や「私の嫌いな生命」の幸せを願うのは、なかなか気持ちを込めることができず、正直難しいです。
でも、「私」の幸せならをグッと気持ちを込めて願うことができるので、その延長で気持ちを維持したまま、主語だけ変えていけばいいので、やりやすいです。
特定の人をイメージしても良いのか?
「私の親しい生命」「私の嫌いな生命」などをイメージするとき、自分の家族や恋人など特定の人をイメージしても良いのかという疑問がわきます。
スマナサーラ長老は、
「慈悲の瞑想は、最終的には生きとし生けるものを対象にしなくてはいけません」
と言いつつも、最初は「生きとし生けるもの」を実感をもってイメージすることは難しいので、はじめは身近な人をイメージすることを推奨しています。
例えば、自分に子どもがいるとしたら、その子から始めます。
自分の子どもの幸せを願うことは、ごく自然にできますよね。
それから、イメージの対象を徐々に広げていきます。
子どもが通う幼稚園や小学校のお友だち、さらにその周りの大人たちにも広げていきます。
数をどんどん増やしていき、最終的には、この世に生きる動物や植物たちにも、我が子を思うように幸せを願っていきます。
ただし注意しておきたいのは、「人を幸せにしてやるぞ」というお節介や傲慢ではないということです。
慈悲の瞑想は、他人にお節介をするものではなく、あくまで自分の慈しみの心を育てるための瞑想だそうです*3
嫌いな人のことを、無理して好きになる必要があるのか?
嫌いな人や嫌いな生命の幸せを願うのは、正直抵抗があるという方も多いはずです。
自分を苦しめるパワハラ上司のことなんか、思い出したくもないですし、幸せを願うなんてもってのほかです。
人でなくても、生理的に苦手なゴキブリとかクモなんかもいますし、どうしても退治したくなってしまいます。
スマナサーラ長老は、
「人間には理屈抜きの好き嫌いがある」と言います。
ゴキブリが平気という人もいれば、どうしても無理という人もいます。
人にも合う・合わないの相性があるのは自然なことなので、嫌いなものを無理して好きになる義務はありません。
好き嫌いがあるのは当たり前のことと理解した上で、自分を観察しながら、嫌いだと感じてしまう生命に対して慈悲のこころが起きるよう練習すればよいそうです*4
「悟りの光」とは何か?
「悟りの光が現れますように」というフレーズがありますが、この表現、気になりますよね。
「悟りの光」が何を意味するのかわからない
表現が宗教的で、ちょっと抵抗がある
という方も多いかもしれません。
慈悲の瞑想のフレーズは、パーリ語の経典の中でブッダが慈悲について語っている部分を元に作成されているので、どうしてもこのような表現が出てきています。
スマナサーラ長老は、「悟りの光」とは、「智慧」の文学的表現であると言っています*5
仏教において、「智慧」とは、「すべては無常である」と知る(悟る)ということです。
「悟りの光」を、神々しい神秘的なイメージでとらえる必要はありません。
気になる方は、代わりに「智慧が現れますように」と唱えても問題ないそうです。
おわりに
以上、慈悲の瞑想のやり方や、取り組む上でのポイント、背景にある考え方や疑問点をまとめてみました。
生きとし生けるものの幸せを願うなどということは、普通の人はまず経験しないことなので、はじめのうちは慣れないと思います。
でも、1日5分でも続けていくと、確かに効果を感じるときはあります。
特に、気持ちが荒んでいるときや、怒りや悲しみに支配されているときにやってみると、ほっとした気持ちになったり、いくぶん心が穏やかになったりします。
私の個人的な見解ですが、慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想など他の瞑想法に比べて、非常に効果の感じやすい瞑想だと思います。
実際、慈悲の瞑想の効果については、科学的にも明らかになっています。
以下のエントリで、心理学や脳科学の視点から慈悲の瞑想の効果について検証しているので、こちらもあわせてご参照ください。
なお、慈悲の瞑想についてもっと詳しく知りたいという方は、このエントリでも参考にしたこちらの本をおすすめします。
さまざまな観点から、慈悲の瞑想を実践する上でのアドバイスが盛り込まれています。
参考になれば嬉しいです。
パオ