スマナサーラ長老と熊野宏昭先生の対談に行ってきました!
2019年3月31日(日)、テーラワーダ仏教界の大御所スマナサーラ長老と、マインドフルネスの第一人者熊野先生の対談イベントが東京で開催されました。僧侶、医師、それぞれの視点からみた「マインドフルネス」とは?重要ポイントをまとめてみました。
はじめに
スマナサーラ長老と熊野宏昭先生による対談・ワークショップに行ってきました。
熊野先生は、医学博士であり臨床心理士。医療の現場でマインドフルネスを活用する研究・実践を続けておられる方で、日本におけるマインドフルネスの第一人者ともいうべき方です。
スマナサーラ長老は、スリランカ出身のお坊さんで、日本で30年近くの間、法話や瞑想指導を精力的に行われている方。この分野では、大変に有名な方です。
最近では、マインドフルネスということばはわりと広く浸透し、その効果については科学的にも明らかになり、誰にとっても親しみやすいものになりつつあります。
ただ、マインドフルネスはもともと、テーラワーダ仏教(スリランカ、タイ、ミャンマーなどで信仰されている仏教)の「ヴィパッサナー瞑想」に由来しています。
医学的にみた「マインドフルネス」と、本家本元である「ヴィパッサナー瞑想」。
その両者による対談・ワークショップでした。
私が実際に参加して、学んだこと、感想などをまとめてみました。
対談の内容を全てお伝えすることはできませんが、個人的に興味深いと思ったポイントをピックアップしています。
熊野宏昭先生の話
(会場の様子)
まず、熊野先生の話から始まりました。
熊野先生のバックグラウンド
熊野先生は、若い頃からヨガや瞑想を長い間実践されていたそうです。
また、東大医学部では、ヨガを使った心理療法を学んだり、身体の緊張をゆるめるリラクセーションの研究・実践を続けられていたそうです。
仏教とマインドフルネスの関係
熊野先生は、仏教とマインドフルネスの関係について、面白い話をしていました。
マインドフルネスはよく、「仏教の瞑想法から合理的な部分のみを取り出し、宗教色を排除したもの」というふうに説明されることがあります。
でも、熊野先生は、「マインドフルネスは、仏教の瞑想そのもの」とおっしゃっていました。
「宗教色を排除した」という説明は、瞑想を商業的に売り込みたいという人たちが後からつけたことばであるというのです。
瞑想と聞くと、カルト宗教のようなものが連想され、怪しいと思う人がけっこういるので、商業的に売り込みたい場合には、「宗教色を排除した」と言わなければいけない事情は理解できます。
ただ、仏教とマインドフルネスは、なかなか切っても切り離せないもの。マインドフルネスを実践する上で、バックにある仏教の考え方は知っておいた方が良いと思います。
そもそも、仏教自体が、カルト宗教のような怪しいものではないのですね。
スマナサーラ長老もよくおっしゃいますが、仏教は神秘体験を目指したり、超能力を開発しようするものではなく、とても理にかなったものです。
熊野先生は、医師として科学的な視点からマインドフルネスを世に広める立場にありますが、仏教との連続性を十分に踏まえて実践しているということを、強調されたのだと思います。
マインドフルネスとアウェアネス
熊野先生は、マインドフルネス(Mindfulness)とアウェアネス(Awareness)についても興味深い話をされました。
どちらも、思考や妄想にはとらわれず、自分の呼吸やカラダの感覚などに気づいている状態を指します。
ただ、大きな違いがあります。
マインドフルネスは、「意図的に注意を向けている状態」。能動的な気づきの状態です。
それに対してアウェアネスとは、「意図しなくても自然に気づいている状態」。受動的な気づきの状態です。
この違いが、実は重要なんだそうです。
瞑想を実践してみると、誰でもすぐにわかることですが、自分の呼吸など一点に注意を集中することって、けっこう難しいです。
すぐに気が散り、雑念や妄想にとらわれます。
雑念や妄想に気づいたら、そこから能動的に意識して、注意を呼吸に戻します。
はじめは、意識的にならないと、注意を呼吸に置いておくのは難しいと思います。
ですが、瞑想実践を続けていく中で、どこかで「意図しなくても気づいている」アウェアネスの状態まで持っていく必要が出てくるのだそうです。
アウェアネス状態は、意図的に注意を向けている状態ではないですから、その主体である「私」という意識も分割されます。
こうした「私」の在り方を、「場としての自己」と呼んだりもするそうです。
マインドフルネスから、アウェアネス状態にどうやって移行していくか、これが、ヴィパッサナー瞑想に取り組む上での大きなポイントになるのですね。
スマナサーラ長老の話
スマナサーラ長老は、瞑想実践や仏教の考え方について、熊野先生とはまた違ったアプローチでお話をされました。
さまざまな話をされていましたが、いちばん強調されていたのは、「『私』は幻覚である」ということ。
こんなことを聞くと、多くの人は、「いやいや、私は現実にここにいるじゃないか」と言いたくなりますよね。
でも、仏教では、固定された実体としての「私」というものは幻覚であると考えます。
あるのは、感覚だけです。
外の空気が肺に入り込む感覚、心臓の鼓動の感覚、手先が空気に触れる感覚、外の音が耳の鼓膜に伝わってくる感覚。。
これらの感覚があるだけで、「私」の思考や悩みとかは現実のものではないと考えます。
実際に瞑想してみるとよくわかります。
瞑想中、カラダの感覚に注意を集中している間は、思考や悩みにとらわれることはありません。
「私」というものは、時間の止まった、固定的な概念です。
しかしながら、全ての事物は流れ、移ろいゆくものです。
変化しないものなど、この世にはありません。
感覚もそう。手先の感覚も、冷たくなったり温かくなったり、汗をかいたり乾燥したり、1秒も同じ状態にはとどまっていません。刻一刻と変化していきます。
変化し続けるカラダや心の状態を観察していくと、このことが身をもってわかってきます。
ですから、常住不変の「私」というものは、幻覚であることがわかります。
長老は、いろいろな例え話をされました。
川にボートが2隻、早いスピードで流れていて、ぶつかりそうになっています。
もしそこに人が乗っていれば「危ない!」と大騒ぎになります。
ボートに乗っている人、これは「私」です。実体視される「自我」のことです。
でも、そこに人が乗っていなければ、ぶつかってもただボートが壊れるだけ、何も騒ぐことはありません。
「私」がいなければ、何も問題は起きないし、大騒ぎすることもないと言います。
おわりに
(会場となった人間禅・擇木道場の外観)
当日は、他にも、熊野先生による瞑想実践ワークショップや、スマナサーラ長老との対談、質疑応答などがありました。
スマナサーラ長老のお話は、初めて聞く方からすると、もしかしたらちょっと極端に聞こえるかもしれません。
「私は幻覚だ」と言われても、なかなか身をもって実感することは難しいかもしれません。
ただ、普段私たちは、「私」を実体視しているからこそ、「私」に紐づいている思考や妄想にとらわれ、苦しい思いをしてしまうのですね。
「どうせ私はダメな人間だ」とかって決めつけてしまうのも、「私」を実体視している証拠。
瞑想は、感覚に注意を集中する練習です。この練習を繰り返すことで、「私」の思考や妄想を解体していくことができます。
結果として、悩みやストレスが小さくなっていきます。
マインドフルネスは、もともと仏教から来たもの。熊野先生もおっしゃっていたように、両者は連続したものであり、なかなか切り離すことはできません。
瞑想を実践するなら、スマナサーラ長老はじめ、仏教の考え方を知っておいて損はないと思います。
当日、予約枠は満員だったそうで、会場は老若男女問わず、多くの方で賑わっていました。
登壇者のお二人がビックネームだったということもありますが、当日の盛況ぶりから、瞑想やマインドフルネスへの関心の高さが伺えます。
私自身も、瞑想の一実践者として、多くのことを学びました。
スマナサーラ長老、熊野先生、またイベントを企画された株式会社サンガのみなさまに心から感謝申し上げたいと思います。
お二人のご著書から、瞑想やマインドフルネスについてより深く学びたいという方は、以下の2冊を特にお勧めします。
自分を変える気づきの瞑想法【第3版】: ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ
- 出版社/メーカー: サンガ
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※なお、このエントリは、イベントの内容を公式に伝えるものではありません。あくまでも一参加者である私の感想です。掲載した写真については、撮影許可をいただいております。
パオ