瞑想難民とは?
よかれと思って瞑想を始めたのに、かえってメンタルが悪化してしまう。瞑想やマインドフルネスが流行するにつれ、そんな「瞑想難民」問題も一部で知られるようになりました。瞑想難民にならないためのポイントを、本を参考にまとめてみました。
はじめに
最近流行りの、瞑想やマインドフルネス。
✅ストレスが低減する
✅集中力がアップする
✅睡眠の質が上がる
などの効果があるとされ、科学的な根拠も明らかになりつつあります。
毎日瞑想をしているという人は、若い層でも、もう決してめずらしくはありません。
一方で、瞑想やマインドフルネスがはやるにつれ、こんな声もよく聞こえるようになりました。
・瞑想を始めたはいいけど、なかなか効果を実感できない
・瞑想を始めて、かえってメンタル状態が悪化してしまった
よかれと思って始めた瞑想。
でも、思わぬ落とし穴に落ちて、「瞑想難民」になってしまう人も少なくないそうです。
このエントリでは、「瞑想難民」にならないために留意すべきポイントを、書籍を参考にしながらまとめてみたいと思います。
瞑想難民とは?
「瞑想難民」ということばが、どこで使われはじめたのかはよくわかりませんが、
『悟らなくたって、いいじゃないか』(プラユキ・ナラテボー・魚川祐司著、幻冬舎新書、2016年)という本の中に、瞑想難民について詳しい説明がありました。
全てのタイプの瞑想が、あらゆる種類の人々にとって「よい」影響を及ぼすかと言えば、事情は必ずしもそう単純ではない。
「悪い瞑想」が存在するから、というよりも、多様な瞑想技法が実践者に示す「目的地」はそれぞれに異なるので、自分が目指すものとは違った「目的地」へと導くタイプの瞑想を実践してしまうと、本人にとっては必ずしも望ましくない結果が、瞑想によってもたらされることもあり得るからである。
このように、自身にとって幸福を感じられる生を求めて瞑想を実践したのに、そうすることで、ますます不幸になってしまう人々のことを、本書では「瞑想難民」と呼んでいる。
引用元:『悟らなくたって、いいじゃないか』プラユキ・ナラテボー・魚川祐司著、幻冬舎新書、2016年。以下同じ。
簡単にいうと、瞑想難民とは、
「瞑想することでかえってメンタル状態を悪化させてしまった人々」のことですね。
なぜ瞑想難民になってしまうのか。
同書の中で魚川さんは、自分が瞑想に求めるものと、実際の瞑想法にズレがある場合に、瞑想難民状態が起こりやすいと指摘しています。
世の中には、さまざまな種類の瞑想があります。
瞑想が目指す目的や、そのメソッドも、瞑想法によって大きく異なります。
「悪い瞑想」があるから、それを避ければよしという話でもありません。
瞑想難民にならないためには、
自分が瞑想をすることで何を得たいのかをまず明確にし、数ある瞑想法の中から、自分の目的に適合したものを選ぶという作業を行わなければなりません。
もともと、瞑想は「悟り」を目指すものだった
自分に合った瞑想法を選ぶにあたっては、当然ながら、瞑想についての基本的な理解が欠かせません。
瞑想自体が問題であるというよりも、必要な知識と理解を欠いたままその実践を続けてしまうことが問題なのだから、瞑想に関心をもつ人々にとって大切なのは、自分が行おうとしている実践の性質がいかなるもので、それがどこに己を導くかということについて、事前に一定の把握をしておくことだ。
そして、そのために必要なのは、現代日本で注目されている多くの瞑想が、本来は仏教に由来しており、その宗教的な枠組みの中で、「悟り」を実現するためにデザインされている技法であることを、きちんと意識しておくことである。
仏教は「転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)」の宗教であると言われており、その目的を実現するための実践(の一つ)が瞑想なのだから、それを自ら継続的に行うということは、それぞれの宗派・指導者が理想とする「悟り」(と、明示的に言われる場合と、そうでない場合があるが)の方向へと、己の人格を形成していくことに他ならない。
このことは、「宗教色」を除いた瞑想技法であるとされるアメリカ発の「マインドフルネス」実践にも、それが内容的にはテーラワーダ仏教のウィパッサナー瞑想とほぼ変わらないものである以上、ある程度は当てはまることである。
私の印象では、近年の瞑想ブームの中では、アメリカ発の「マインドフルネス」の文脈で実践する人が多いように思います。
「集中力を高めたい」とか「仕事のパフォーマンスを上げたい」などといった動機で取り組む人が増え、ずいぶんとカジュアルになってきました。
ただその中身は、実は、伝統的な仏教の瞑想法とほぼ同じ。
もともと仏教徒は、「仕事のパフォーマンスを上げる」ために瞑想をしていたわけではなくて、「悟り」を目指して瞑想していたわけです。
瞑想は本来は、自分の心身でおこる様々な体験をありのままに観察することで、妄想が入り込む余地をなくしていき、最終的には渇愛(欲望)を滅尽していくための技法。
「仕事のパフォーマンスを上げたい」という動機で取り組むようなものではなかったはずです。
「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなるのだ」ということですね。
ただ、(中略)瞑想で養われた「上手くいかなくても気にならない」という態度が、結果として「上手くいく」ことに繋がってしまうという事態は、もちろん起こり得ます。
「仕事のパフォーマンスを上げたい」などという動機で、瞑想を始めても、なかなか上手くいきません。
そういった動機や意図とはいったん離れて、ただ自分の身体の感覚をありのままに観察していくのが瞑想です。
ただ、そうやって感覚をありのままに観察する実践を積んだ結果、妄想にとらわれにくくなり、集中力が増したり、仕事のパフォーマンスが上がったりすることはあり得る。
少し逆説的ですが、このカラクリを理解しておくことが、瞑想実践を続けていく上できわめて重要になってくるのだということです。
瞑想する目的を明確にする
瞑想難民状態になるのを防ぐためには、まず、「自分はなんのために瞑想するのか」ということをはっきりさせなければなりません。
仏教や瞑想の実践に求めるものは、人によってさまざまです。
「仕事のパフォーマンスを上げたい」、「仕事でもっと創造性を発揮したい」という人もいれば、「人間関係の悩みを解決したい」という人もいます。
また、中には、「渇愛を滅尽して解脱に至りたい」という人だってもちろんいます。
瞑想する目的にしたがって、数ある瞑想法の中から、自分に合うものを選んでいく必要があります。
カジュアルな文脈で瞑想に取り組む場合には、宗教色を排した「マインドフルネス瞑想」で十分だと思います。
医療法人が経営しているところもありますし、信仰を問わず、多くの人が安心して瞑想に取り組める環境が整っています。
ただそこでも、何のために瞑想するのか、瞑想することで何を得たいのかということを明確にしながら、指導してくれる専門家とよく相談し、進めていくことが大切です。
また、伝統的な仏教の文脈で取り組む場合も、瞑想法の選び方は慎重になった方がいいのかもしれません。
同書では、タイとミャンマーの瞑想センターの違いについて、興味深い記述がありました。
タイのアーチャン・チャー、ミャンマーのマハーシ・サヤドー、どちらも大変有名な瞑想指導者です。
ただ、両者で瞑想実践のやり方が大きく異なるのだとか。
チャー師の寺では瞑想するのは1日に二時間から四時間程度で、それ以外の時間はコミュニティにおける生活の中で苦を手放す法の実践に充てられた。
ところが、マハーシ・センターに行くと、1日に十時間から十八時間も瞑想をして、コミュニティにおける実践のようなものは皆無だった。
つまり、生活における実践が主で瞑想がそれに奉仕するのか、瞑想が主で生活がそれに奉仕するのか、という「図と地」の関係が、全く反転していたというわけです。
タイの瞑想センターでは、「いま・ここのライブでの気づきを重視」し、瞑想はあくまで練習で、それをリアルな生活の場に生かしていくことに重点が置かれる傾向があるそうです。
対して、ミャンマーでは、瞑想段階を意識しながら、涅槃の境地というものを目指していくような、わりとハードコアな実践が行われる傾向にあるそうです。
日本で瞑想を学ぶ際にも、この違いは留意すべきかもしれません。
日本国内にも、東南アジアから輸入されたさまざまな瞑想法が並存しています。
例えば、同書の著者でもあるプラユキ先生。
同書の中でもたびたび言及がありますが、プラユキ先生の瞑想指導は、やはり「生活の中での気づきを重視する」タイプです。
対して、ミャンマーの系統でいうと、例えば、10日間の瞑想合宿で有名な、日本ヴィパッサナー協会。
こちらの瞑想指導は、ミャンマーのゴエンカ師の指導法によるもので、瞑想をメインとしたかなり集中的なプログラムが組まれていることで知られています。
どちらが正しい、間違っているということではなくて、
自分の瞑想の目的に照らして、必要な瞑想実践を選択していくという姿勢が大切なのだと思います。
自分の瞑想の目的があいまいなまま、たまたま最初に出会った瞑想法を盲目的に続けてしまうと、かえってメンタルを悪化させるなんてことは、よくあるそうです。
瞑想がブームになっている今だからこそ、瞑想難民にならないためには、細心の注意が必要ですね。
おわりに
今回のエントリについては、大部分を『悟らなくたって、いいじゃないか』を参考にして書きました。
題名にも現れているように、同書は、仏教徒でもなく「悟り」を目指しているわけでもない「普通の人」が、瞑想に取り組む上で知っておくべきことを伝えるというスタンスで書かれています。
瞑想は、もともと仏教のもの。
瞑想を継続的に取り組んでいこうと思ったら、信仰のあるなしに関わらず、仏教の考え方を頭に入れておいて損はないと思います。
同書には、瞑想に取り組む上で、知っておくべき仏教のエッセンスがつまっています。
瞑想にはさまざまな考え方やスタンスがあり、それがときに衝突を生んだり、瞑想実践者に混乱をもたらしたりするのですが、
プラユキ先生と魚川さんはそのへんの複雑な事情を十分に理解した上で、極めて中立的な視点から是々非々で論を展開し、読者に瞑想の「良きガイドマップ」を示してくれています。
数ある仏教書の中でも、こんな本は見たことがありません。
文章はとても平易で読みやすいのですが、何度読んでも新たな学びがあり、私はとても重宝しています。
個人的には、瞑想難民にならないためにも、同書は必読の書といってもいいと思っています。
ぜひ手にとってみてください。
悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)
- 作者: 魚川祐司,プラユキ・ナラテボー
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2016/10/28
- メディア: 新書
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