『なぜ今、仏教なのか』(ロバート・ライト著)ブックレビュー!
『なぜ今、仏教なのか』(R.ライト著)の書評記事です。本書は、科学ジャーナリストである著者が、「仏教の瞑想って、実際どんな体験なの?」ということを、自身の体験をもとに、包み隠さずわかりやすく説明した良書となっています。
はじめに
『なぜ今、仏教なのか』(ロバート・ライト著)
本書は、めずらしいタイプの仏教書です。
従来の仏教書というのは、どちらかというと、仏教の教えを解説するものが多かったように思います。
例えば、
無我とは、〇〇ですよ。
無常とは、〇〇ですよ。
みたいな感じです。
仏教の教えのいくつかの重要な概念を、僧侶や仏教学者がわかりやすく解説するというものですね。
しかし、本書は違います。
仏教の実践、その中核にあるものは、「瞑想」です。
瞑想って、実際、どんな体験なの?
そこ、重要ですよね。
著者は、自分で実践した瞑想体験の内容を、わかりやすくことばにしてまとめています。
こんな仏教書は、今まであるようで、あまりなかったのではないかと思います。
しかも、著者は、僧侶でも仏教学者でもなく、科学ジャーナリストです。
また、仏教というと「欲望とは距離を置いてストイックに生きる」みたいなイメージがありますが、著者は、特にストイックな人物ではありません。
著者自身が本の中で、「砂糖がけドーナツが大好き」と何度も公言していますからねw
宗教よりは科学寄り、しかも少し俗っぽいところがあります。
ですから、著者の立ち位置は、一般的なわれわれ読者に近いです。
そんなところが、仏教書としてユニークな点であり、魅力でもあると思います。
「赤い薬」のモチーフ
仏教って、そもそも何でしょうか?
本書の冒頭、印象的なつかみです。
映画『マトリックス』をみたことがあるだろうか?
主人公のネオ(キアヌ・リーブス)は、自分の住む世界が夢の世界であることに気づく。
ネオが日々暮らしていると思っていた生活は実際には精巧な幻覚にすぎず、現実のネオの肉体は、ぬめぬめした液体に包まれて棺大のポッドにとらわれていた。
ネオが迫られた選択 − 妄想を生きつづけるか、現実に目覚めるか − は、有名な「赤い薬」のシーンで描かれている。
ネオは、自分の夢にはいりこんできた反逆者たち(正確にいうと、夢にはいりこんできたその分身)から接触を受ける。
反逆者のリーダーであるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)は、ネオにこう状況を説明する。
「きみは奴隷だ、ネオ。ほかの者たちと同じように、きみは生まれた時からとらわれの身だ。味わうことも見ることも触れることもできない牢獄にいる。心をしばる牢獄だ」。
モーフィアスはネオに二つの薬をさしだす。
赤い薬と青い薬だ。
青い薬を飲んで夢の世界に戻ることもできるし、赤い薬を飲んで妄想の覆いを突きやぶることもできる。
ネオは赤い薬を選んだ。
引用元:『なぜ今、仏教なのか』ロバート・ライト著、2018年、早川書房。以下同じ。
映画『マトリックス』(1999年)の中の、「赤い薬」のシーンです。
著者は、仏教の考え方を、この「赤い薬」になぞらえて説明しています。
青い薬を飲んで、妄想ととらわれの人生を生きるか。それとも、赤い薬を飲んで、洞察と自由の人生を生きるか。というわけです。
仏教では、私たちが見ているこの世界は、幻覚とは言わないまでも、妄想と錯覚によってゆがめられているという考え方をします。
妄想と錯覚をもたらしているものは何か?
欲望です。
食欲、性欲、またさまざまな社会的欲求が、妄想と錯覚を生み出し、私たちの行動をかりたてると考えます。
私たちは、棺台のポッドに捕えられたネオのように、欲望に支配された存在です。
欲望に支配された世界にとどまるのか。
それとも、赤い薬を飲んで、欲望から自由になるのか。
仏教的に考えれば、赤い薬を飲めば、欲望から解放され、洞察と自由の人生が待っているというわけです。
なぜ瞑想するの?
みなさんは、赤い薬を飲みたいと思いますか?
瞑想の実践を積んで、欲望から解放され、洞察と自由の人生を歩んでみたいと思いますか?
「洞察と自由の人生」というとすばらしい感じがしますが、欲望から解放された状態というのは、ちょっと普通ではないですよね。
砂糖がけドーナツを目の前にしても何も思わず、
よく運動した後の、生ビール一杯の味もわからなくなる。
かわいい女の子の手を握りたいと思う心も、ずっと好きだったあの子と初めてエッチしようというときの気持ちの高ぶりも、
何もかもなくなってしまう、何とも味気ない状態ですよね。
ここでいう「洞察と自由の人生」が、全ての人にとって本当に良いものか、疑問は残ります。
著者も、そんな考えの持ち主。
それでも著者は、食欲も性欲も人並みにある「ふつうの人」でも、仏教の瞑想をしてみる価値はあると言います。
著者は、マインドフルネス瞑想の合宿で、こんな体験をしたといいます。
瞑想合宿での体験
ある瞑想合宿の4日目か、5日目のことだ。
私はいつものように、クッションのうえで足を組んで目を閉じていた。
何か一つの事に集中していたわけではなく、音にも、感情にも、身体感覚にも特に意識を向けていなかった。
自分の気づきの領域が大きくあけはなたれているようだった。
ある部分から他の部分へと注意がらくに移動し、新しい止まり木に移るたびにちょっと止まって休み、休んでいる間も残りの全体を感じていた。
ある時点で、足がじんじんしびれるのを感じた。ほとんど同時に、外で鳥がさえずっているのが聞こえた。
そしてここが奇妙なところだ。
鳥のさえずりが自分の一部でないのと同じくらい、足のしびれが自分の一部でないように感じたのだ。
これまでに何度か、本当に熟達した瞑想家に自分の経験を説明する機会があった。
僧侶もいれば有名な瞑想指導者もいるが、一人の例外もなく、私が説明しているような経験を自分も経験したことがあると言っていた。
これはどういうことでしょうか?
足のしびれを、知覚しているにもかかわらず、自分のカラダで起きていることとは感じられない。
外の鳥のさえずりのように、どこか自分の外部のことのように感じる。
そして、こうした体験は、熟達した瞑想家や指導者なら誰もが経験しているものなのだそうです。
瞑想は、自分の心身や周囲の状況を、現象としてあるがままに観察する訓練です。
通常であれば、足がしびれたら、「ああ、足がしびれた。しんどいなあ。。」みたいに心が動きます。
続いて、「足を少し楽にしたい」みたいな欲が生まれてきます。
欲が生まれてくるから、その欲が満たされなくて、心は余計にしんどくなります。
でも、瞑想の訓練によって、ただ「足がしびれている」という現象を、自分の心とは切り離して、知覚できるようになるということです。
「足のしびれ」をただ他人事のように知覚しているだけですから、しんどいも何もないのです。
これは、端的にいって、すごい経験だと思います。
ベトナム人僧侶の話
さて、著者の瞑想体験の一部を紹介しましたが、世界には、もっとすごい話があります。
瞑想修行によって、耐えがたいはずの痛みを実質上まるで意に介さなくなる人がいるのはまちがいない。
1963年6月、ティク・クアン・ドックという名の僧侶が、仏教徒に対する南ベトナム政権の冷遇の反対する抗議行動をおこなった。
ドックはサイゴン市内の通りにクッションをしき、結跏趺坐(けっかふざ)をとった。
べつの僧侶に頭からガソリンをかけさせたあと、
「目を閉じ、ブッダの御前に向かう前に、ゴ・ディン・ジエム大統領にうやうやしく嘆願します。どうか国民に慈悲の心で接し、宗教の平等を実現し、故国の力を永遠に維持してくださいと」と述べた。
そして、マッチに火をつけた。
ジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムはこの抗議行動を目撃し、次のように書いている。
「僧侶は焼けながら、身じろぎひとつせず、声一つ立てなかった。その落ち着き払ったようすは、周りで嘆き悲しむ人々と際立って対照的だった」
これは実話です。
この僧侶は実際に焼け死んでいるわけですから、我慢で抑えられるような痛みではないはずです。
僧侶が何を感じ、どんな心境でいたのか、詳しくはわかりません。
人間ですから、皮膚、筋肉、臓器、カラダのあらゆる部分が焼けただれていく感覚は、あったのだろうと思います。
でもそれを、必死で我慢していたという感じではなく、そもそも、自分のものとは感じていなかったのかもしれませんね。
思考は私のものではない
本書の終盤で、著者は、自身の瞑想体験のハイライトのような文章を書いています。
それにしてもここはどこだろう。
少し見まわしてみて、自分の心がはいりこんだ場所が自分の心の中であることに気づいた。
少なくとも、自分の心が生み出した自分の心の表象だ。
ないしょだが、私はこのとき、 自分が何かばかなことや変なことやまちがったことをしたに違いないと思うたびに何度も浮かべてきた思考を「見た」 ー そしてたぶん「聞いた」 。
「しくじったな」という思考だ。
考えてみれば、この思考はどんな形を取るところも見たことがなかった。
しかしこのときはまるで、自分の心の一部がこの思考を他の部分に話して聞かせているように見えた ー 文字通り見えた。
メッセージの道筋をたどった線のようなものまであった。情報が伝わる方向を示す矢印のようだった。
私は傍観者になって頭の中もこの会話を見守り、メッセージが送り手から受け手に伝わるのを見守った。
受け手が自分であることはぼんやり分かっていながら傍観していた。
私はどんな真実を見ていたか。
その時私は、生まれて初めて、自分のいつもの思考「しくじったな」ー が自分から発せられているのではなさそうだということに衝撃を受けていた。
まるで頭の中の誰かが言葉を発しているようだった。
それも、 注意を払うだけの値打ちがあるのかもはっきりしない男だ。
そもそもこいつはだれなのだろう?
著者の瞑想体験を、文字にしたものの一部です。
翻訳文ということもありますが、ちょっと謎めいていて、何を言っているのかわからないかもしれません。
ひょっとすると、超越的で神秘的な体験をしているように見えるかもしれません。
本当のところはご本人に直接聞かないとわからないですが、私は、これは神秘的な体験だとはとらえませんでした。
ここで彼が言いたかったことを一言でまとめると、
「思考は私のものではない」
になると思います。
「思考は私のものではない」ことに気づいた、ということです。
「しくじったなあ」「ああ、ダメだあ」と考えてしまうことって、よくあります。
瞑想している方ならわかると思いますが、瞑想中に、
「ああ、瞑想うまくできないなあ」「しくじったなあ」と考えてしまうことはよくあります。
瞑想でなくても、日常生活で、何かしら「しくじった」と思うことは、とてもよくありますよね。
この「しくじった」という思考、これは「私の思考」ではないんですね。
「私の思考」だと思っているありとあらゆる思考。
これは、「私の思考」ではなく、どこからともなく湧いてきて、去っていく「ただの思考」です。
先ほどの「足のしびれ」や「体が焼ける痛み」と同じです。
瞑想すると、しびれや痛みを、自分のものではないというふうに感じるようになります。
心の中の思考でさえも、それは自分のものではないように感じられるということです。
頭の中で、誰か知らない人が、勝手におしゃべりをしている。それを外からただ傍観する。といった感覚です。
著者がこの本で伝えたかったこと、私なりに解釈すると、こんな感じです。
おわりに
赤い薬の話に戻りましょう。
赤い薬を飲むと、「欲望から解放され、洞察と自由の人生が待っている」と言います。
欲望すらも、もはや自分のものではなく、ただどこからかやってきて、去っていくもの。
その現象をありのままに観察する視点が持てれば、欲望から自由になれる。
現実を歪めているさまざまな思考や妄想、錯覚から自由になれます。
本書で語られる、「赤い薬を飲む」というのは、そういうことです。
著者が言うように、瞑想は、仏教徒ではないふつうの人にとっても、やってみる価値があると、私も思います。
私なんかは、安直な性格ですから、
本書を読み終えて、
「そんなすごい体験があるなら、自分もしてみたい!自分も瞑想がんばりたい!」なんて思ってしまいました。
でも、それも欲望なんですけどねww
アメリカではベストセラーになっているそうです。
ぜひ手に取ってみてください。
※この記事は、2018年12月12日のエントリをリライトしたものです。
パオ