#親鸞とインターネット
「親鸞とインターネット」のイベント、ネット中継で拝聴しました。ポイントをまとめ、感想などを書かせていただきました。
はじめに
#親鸞とインターネット 始まった!https://t.co/ynl3Zrgt5V
— 松本紹圭 Shoukei Matsumoto (@shoukeim) January 23, 2019
昨日1月23日、東京の光明寺というお寺で、「親鸞とインターネット」というイベントが開催されました。
起業家の家入一真さんが立ち上げた、10〜20代のクローズドコミュニティである「やさしいかくめいラボ」 と、
光明寺の僧侶、松本紹圭さんが発起人となった、
宗派を超えて全国の僧侶がつながる実験の場である「未来の仏教ラボ」との共催とのことです。
家入さんと松本さんの対談あり、参加者とのディスカッションありと、大盛況だったようです。
と、紹介させていただきましたが、私は、関係者ではありませんし、当日参加したわけでもありません。
ツイッターでこのイベントのことを知り、興味をもっただけの者です。
遠方だったため、どうしても参加がかないませんでした。
でも、幸運にも、会場の様子をツイッターで配信してくださったので、拝聴することができました。
このエントリでは、私なりのまとめと、自分なりに思ったことなどをシェアさせていただきたいと思います。
いち応援者の意見ではありますが、読んでいただけたら嬉しいです。
松本紹圭さんのお話:日本のお寺は2階建て
松本さんは、まず、「日本のお寺は2階建て」というお話をされました。
日本の仏教は、大きく分けて、2つの階層がある。
①1階部分は先祖教
②2階部分は仏道
です。
①先祖教というのは、死者に関わる部分ですね。
葬式、お墓、法事、檀家制度など。
普通のお寺だと、事業の大部分は、こちらに属します。
お寺の経済も、こちらを主体に動いてます。
ただ、昔から続いてきた檀家制度も衰退の傾向にあり、「お寺離れ」ともいわれたりしています。
②仏道というのは、これは生きている人たちに関わるものです。
私たちはどう生きるかという所に関わる部分です。
マインドフルネス、坐禅、あるいは思想、哲学。
昨今では、1階部分の「先祖教」とは対照的に、仏教ブームとして盛り上がりを見せています。
以上、日本の仏教を考える上で、前提として把握しておくべきお話がありました。
家入一真さんのお話:親鸞とインターネット
次に、家入さんの話に移ります。
家入さんは、クラウドファンディングサイトを運営する株式会社CAMPFIREの取締役であり、起業家・投資家として広く知られた方です。
ん?親鸞と何の関係があるの?と思うかもしれません。
親鸞は、鎌倉時代のお坊さん。浄土真宗の開祖として知られる人物です。
家入さん曰く、「親鸞は、存在自体がインターネット」なんだそうです!
どういうことなのか、家入さんより興味深い説明がありました。
インターネットというのは、お金の動きを民主化する機能があると。
かつてインターネットがなかった時代には、何か事業を始めたくても、個人ではなかなかお金を集めることができなかった。
でも今は、クラウドファンディングがありますね。
アイデアやモチベーション、影響力しだいで、個人でも大口のお金を集めることができます。
インターネットの登場により、お金集めの民主化が起きたわけです。
親鸞も、似たようなことをした人だというのです。
ここで、松本さんが補足説明をされます。
親鸞は、お金集めではなく、「救い」を民主化した。
親鸞が生きた鎌倉時代は、戦乱の世。
貧困やいくさによって、そこら中に死体が転がっているような世の中でした。
しかし、当時、一切の衆生に救いをもたらすはずの仏教は、ある意味で腐敗していました。
当時の仏教の中心は、比叡山です。
比叡山は、エリート僧侶の集う仏教の総合大学でしたが、そこで行われていた学問や実践は、当時の一般庶民の生活とはかけ離れたものでした。
親鸞は、これに疑問を感じ、比叡山を降りる決断をします。
庶民の生活圏に入り、誰でも救われる教えを説こうとします。
特権階級のものとなりつつあった教えを、庶民に解放します。
「救い」の民主化をしたのです。
家入さんにとって、ライバルは親鸞なのだそうです。
この言葉は印象的でした。
今なら、その意味がよく理解できます。
条件のない世界へ
絶対他力
よくある誤解なのだそうですが、
「南無阿弥陀仏を唱えれば、救われる」というのは、間違っています。
正しくは、「南無阿弥陀仏」を唱えようが唱えまいが、そういう自分の努力とは関係なく、救われる。
浄土真宗は、「絶対他力」を説きますから、自分にできる努力とか、裁量は1ミリもありません。
松本さんの言葉をお借りすれば、「条件づけ」がないということです。
自分はこれだけ頑張ったんだから、報われてもいいはずだ
とか
自分は恵まれた環境にいるのだから、文句を言っちゃいけないんだ
とか、そういう思考ってありますよね。
前段の、「〇〇したから」というのが条件づけです。
これを取ってしまおうというのが、親鸞の教えです。
マインドフルネスとの共通点
これ、マインドフルネスと共通点がありますよね。
ここからは私見になりますが、
私は、マインドフルネス瞑想を、毎日の生活に取り入れています。
集中力をアップさせたい! ストレスを減らしたい! 勉強や仕事のパフォーマンスをあげたい!
動じない心を持ちたい! 自分を変えたい!
瞑想を始める動機って、だいたいこんな感じです。
でも「こういう自分になりたい」っていうのは、本当はマインドフルな態度ではないんですね。
〇〇したいから、〇〇になりたいからっていうのは、条件づけです。
条件を外してみる
「こういう自分になりたい」ではなくて、「今のありのままの自分でいる」っていうことです。
Doing ではなく、Being です。
何かをするのではなく、ただありのままでいるということです。
マインドフルネス瞑想は、このあり方を訓練していくものです。
条件を外すのが仏教の役割
ところが、現実の社会は、「ありのまま」でいることをあまり許してくれないんですね。
「ありのままの自分」の上に、いろいろな仮面を付けて、戦わなくてはいけません。
年齢、性別、国籍もそう。
学生、社会人、主婦とかいう立場もそうです。
お金や知名度の有るなしで、人格を判断されます。
努力はほめられ、怠惰は責められます。
私たちは、条件付きの世界を生きています。
その条件を外していく営み、これが仏教のエッセンスです。
仏教には、法門無量ということばがあるくらい、多種多様な宗派があります。
中には、互いに矛盾するような教えもたくさん。
でも、浄土系の教えであっても、禅宗であっても、はたまた東南アジアに普及しているテーラワーダ仏教であっても、
この「条件を外す」というエッセンスは、かたちを変えて通底しているのですね。
おわりに
いわば、インターネットという技術も、社会にはりめぐらされた条件を、外していくようなところがあるのかもしれません。
松本さんも、家入さんも、長年こうした活動をされてきた方ですね。
今回イベントを企画された「やさしいかくめいラボ」と「未来の仏教ラボ」のみなさまにも、感謝申し上げます。
残念ながら参加することはできませんでしたが、ツイッターで映像配信してくださったおかげで、大きな学びを得ました。
これも、インターネット技術のおかげですね。
みなさまの活動を、陰ながら応援しております。
ありがとうございました。
パオ